「この作業はどれくらいで終わるか」という問いに、人によって桁の違う答えが返ることがある。 一方は3日と答え、他方は「やってみないと分からない」と答える。
このとき両者が食い違っているのは工数の見積もりではない。 その作業がどういう種類の状況に属するかの認識である。 そこが揃っていないかぎり、工数の議論をいくら続けても収束しない。
クネビンフレームワークは、この「状況の種類」を見分けるための枠組みである。
本ハンドブックがこれを取り上げるのは、設計層の判断の見通しを測る目盛りとして使うためである。 その用途は「複雑と煩雑は違う」で扱う。本文書は道具そのものの説明に徹する。
なおクネビンフレームワークは Dave Snowden による意思決定支援の枠組みであり、 ソフトウェア開発のために作られたものではない。 広く知られたのは Snowden と Mary Boone による2007年の論文 "A Leader's Framework for Decision Making" である。 名称は変遷しており、最上位の領域は Simple から Obvious を経て Clear と呼ばれるようになった。 以下のソフトウェアでの例は本ハンドブックによるものである。
先に最も多い誤読を潰しておく。
5つの領域は「悪い状態から良い状態への段階」ではない。 状況の種類の分類であり、上下関係はない。
したがって「明確系を目指す」「複雑系から煩雑系へ、煩雑系から明確系へ昇格させる」という読み方は、 この枠組みの使い方として誤りである。 後述するとおり、明確系は安全地帯ですらない。
領域を判定する目的は、そこで採るべき行動の順序が領域ごとに違うからである。 昇格させるためではない。
| 領域 | 原因と結果の関係 | 行動の順序 | 拠りどころ |
|---|---|---|---|
| 明確系(Clear) | 誰にでも自明 | 感知 → 分類 → 対応 | ベストプラクティス |
| 煩雑系(Complicated) | 存在するが、分析や専門知識が要る | 感知 → 分析 → 対応 | グッドプラクティス(複数ありうる) |
| 複雑系(Complex) | 事後にしか特定できない | 探索 → 感知 → 対応 | 創発的プラクティス |
| 混沌系(Chaotic) | 知覚できない | 行動 → 感知 → 対応 | 前例のない対処 |
| 無秩序(Disorder) | どの領域にいるか分かっていない | — | — |
真ん中の列だけを見ると、この枠組みの主張が読み取れる。 どの領域でも「感知」と「対応」は共通で、その間に何を挟むかが違う。 明確系は分類を、煩雑系は分析を挟む。 複雑系はそもそも感知の前に探索を置き、混沌系は感知すら待たずに行動する。
原因と結果の関係が、専門知識なしに誰の目にも明らかな領域。 やるべきことは既に決まっており、当てはめれば済む。
ここにだけベストプラクティスが存在する。唯一の正解があるからそう呼べる。
危険は油断である。「分かりきっている」として確認を省いた結果、 前提が変わっていたことに気づかず事故になる。この崖については後述する。
原因と結果の関係は確かに存在するが、それを知るには分析か専門知識が要る領域。 調べれば分かる。詳しい人に聞けば分かる。
ここには唯一の正解がない。妥当な解が複数ありうるため、 拠りどころは「ベスト」ではなくグッドプラクティスと呼ばれる。
「ベストプラクティス」という語を煩雑系に持ち込むと事故る。 複数の妥当解があるところに唯一解があると考えると、 文脈の違う成功事例をそのまま適用して失敗する。
原因と結果の関係が、事前には特定できない領域。 やってみて、後から振り返ってはじめて「あれが原因だった」と言える。
したがって分析は役に立たない。分析すべき因果関係が、行動する前には存在していないからである。 ここで採るのは、安全に失敗できる小さな実験を打ち、その反応を見て次を決める進め方である。
複雑系を煩雑系と誤認すると、分析に時間を溶かす。 会議を重ね、資料を厚くし、それでも予測は当たらない。 逆に複雑系だと正しく認識できていれば、最初にやるべきは検討ではなく小さく試すことになる。
原因と結果の関係が知覚できない領域。多くの場合、危機である。
ここでは分析も探索も待てない。まず行動して止血し、状況が動いたのを見てから次を決める。 順序が他と違い、行動が感知より先に来るのはこのためである。
混沌系で「まず原因を調べよう」と言うのは、 正しい手順を誤った領域で適用していることになる。
5つ目は、他の4つとは種類が違う。 自分がどの領域にいるか分かっていない状態を指す。
この領域が重要なのは、次の性質があるためである。
無秩序にいる人は、自分が最も得意な領域の作法で対処しようとする。
分析が得意な人は分析を始め、手順の運用が得意な人は既存の手順を当てはめ、 危機対応に慣れた人はいきなり行動する。全員が善意で、全員が噛み合わない。
冒頭の「3日」と「やってみないと分からない」の食い違いがこれである。 一方は煩雑系だと見て日数で答え、他方は複雑系だと見て答えを保留した。 このとき議論すべきは工数ではなく、どちらの領域にいるかである。
境界は4つあるが、すべてが同じ性質ではない。
| 境界 | 渡り方 |
|---|---|
| 煩雑系 ↔ 複雑系 | 徐々に。分析が効かなくなる/効くようになる |
| 複雑系 ↔ 混沌系 | 徐々に。制御を失う/取り戻す |
| 明確系 → 混沌系 | 崖。突然落ちる |
明確系と混沌系は図の上で隣接しており、その間だけは緩やかな移行ではなく崖として描かれる。
落ちる理由は油断である。 「分かりきっている」として点検を省いた領域で前提が変わっていたとき、 気づいた時点で既に制御を失っている。 そして崖から落ちた後、明確系へ戻るのは非常に難しい。
明確系は目標ではない。 この枠組みの中で明確系は、最も安定した領域であると同時に、最も危険な隣人を持つ領域である。
同じ対象がずっと同じ領域にとどまるわけではない。
重要なのは、この移動は一方向ではないことである。 放っておけば整っていくものでも、努力すれば必ず登れるものでもない。
実務で使う際、次の2点を外すと機能しなくなる。
対象に貼るラベルではなく、問いに対する判定である。 「このシステムは複雑系だ」という全体判定はほとんど役に立たない。 同じシステムでも、部位ごと・変更ごとに領域は変わる。 判定すべきは常に「いま行おうとしているこの変更は、どの領域か」である。
判定は主観ではなく、答えられる問いに落とす。 「複雑だと思うか」ではなく、次を問う。
この変更の結果を、変更する前に言えるか。 自分が言えないとして、言える人はいるか。
自分で言えるなら明確系、言える人がいるなら煩雑系、 誰にも言えず試すしかないなら複雑系である。
この枠組みは「何を決めるか」を教えない。 教えるのはその決定を、どういう手続きで決めるのが妥当かである。 出力は「Xをせよ」ではなく「ここでXを見つける方法はYだ」になる。 意思決定支援と呼ばれるのはこのためである。
支援している判断を1つに絞るなら、次になる。
行動する前に、どれだけ分析する価値があるか。そして誰が決めるのか。
分析しすぎても、しなさすぎても損をする。その配分を領域が決める。
領域が変われば、進め方だけでなく見積もりの形式と決裁者も同時に変わる。
| 進め方 | 見積もりの形式 | 決裁者 | |
|---|---|---|---|
| 明確系 | 手順を当てる | 日数で出る | 現場で即決。判断の余地がない |
| 煩雑系 | 分析する。専門家を呼ぶ | 日数で出る(分析時間を含めて) | 分析結果を待って決める |
| 複雑系 | 実験する | 日数では出ない。タイムボックスで区切る | 実験の設計は現場、打ち切りは責任者 |
| 混沌系 | まず止血する | 見積もらない | 一人に集約。説明は後 |
実務で効くのは、煩雑系と複雑系で見積もりの単位が変わる点である。 煩雑系は調べれば分かるので、調べる時間を含めて日数で答えられる。 複雑系は日数では答えられない。 答えられるのは「2週間これに投じて判断材料を揃える」というタイムボックスだけである。
複雑系で「で、何日ですか」と問い続けると、 誰かが根拠のない数字を言うまで会議が終わらない。そしてその数字は必ず外れる。
4つの領域のうち、探索だけが具体像を持ちにくい。 ここでいう探索は安全に失敗できる実験を指し、次の性質を持つ。
「1つずつ順番に試す」のは煩雑系のやり方である。 順番に試せるのは、前の結果が次の選択を絞ってくれる場合、 すなわち因果が効いている場合だけである。複雑系ではそれが期待できない。
2では、先に4領域を描いて項目を放り込む進め方は採らない。 まず項目を並べ、似たものを寄せ、境界を後から引く。 この枠組みは既存の箱に仕分ける分類表ではなく、 並べたものから意味を立ち上げるために作られている。
領域は案件やシステムに貼るラベルではない。同じ案件の中で項目ごとに分かれる。
| 項目(社内文書検索の改修) | 領域 | 決め方 |
|---|---|---|
| ログイン画面に項目を1つ足す | 明確系 | 前例どおり。即着手。0.5日 |
| 検索クエリが遅い | 煩雑系 | 実行計画を読める人なら原因を特定できる。3日 |
| 「検索精度を上げたい」 | 複雑系 | 何をもって精度が高いかは使わせるまで分からない。2週間で3方式を並行検証 |
| 本番でインデックスが壊れ検索が全滅 | 混沌系 | 原因究明より先に旧インデックスへ切り戻す |
この4つを同じ会議で同じ形式で見積もろうとすると壊れる。 3行目に「何日ですか」と聞いた瞬間、議論は成立しなくなる。 この枠組みが与えているのは、4つを別の扱いにしてよいという根拠である。
手順3で最も価値のある成果は、領域の割り当てそのものではない。 「この項目がどの領域か、我々は分かっていない」と言えるようになることである。
無秩序にいる人は自分の得意な作法で対処しようとするため、 無秩序は放置されると議論の空転として現れる。 見積もりが桁で割れるのはその最も観測しやすい症状であり、 そこで揃えるべきは数字ではなく領域の認識である。
「領域は移動する」で述べた移動は、起きるのを待つだけのものではない。 意思決定として意図的に起こせるものがある。
| 移動 | 手段 |
|---|---|
| 複雑系 → 煩雑系 | 実験の結果を記録し、因果を確定させる |
| 煩雑系 → 明確系 | 手順化・自動化する |
| 明確系 → 煩雑系(あえて戻す) | 定期的に「これは本当に自明か」と点検する |
3つ目は見落とされやすいが、崖への唯一の対抗手段である。 明確系に置いたものを置きっぱなしにしないこと自体が、意思決定の一種である。
1つ目にも条件がある。実験の結果を記録しなければ移動は起きない。 記録がなければ次の人が同じ実験からやり直すことになり、その項目は複雑系にとどまり続ける。
見積もりが割れたとき、割れているのは数字ではない。 その作業がどの領域にあるかの認識である。 先に揃えるべきはそちらであり、数字はその後についてくる。